† † † その時、リンは目の前に立つシキの雰囲気がいつもと違うことに気付いていた。いつもと違い、いや、いつも以上に近付いてはいけないと、戦いを仕掛けてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響いていた。だが、いつもと同じように、仕掛けずにはいられなかった。 『感情に左右されるのが、おまえの欠点だ』 何度も告げられ、自分でも知っていて、でも抗えない。強い感情のうねりにリンは支配される。その結果がどんなに惨めだったとしても、感情を殺し今を平穏にやり過ごすことの意義が、リンには分からなかった。 「――――流石に気付いたか?」 シキが、紅い切れ長の瞳を僅かばかり細める。薄い唇の端が引き上げられて、これは明らかに見下した笑みだ。 「こ、の……」 瞬間、リンはカッと頭に血が昇った。手に馴染んだ武器、スティレットの柄を握り直して、油断なくシキを睨み据える。いつもなら踊り掛かっているところだが、動けない。理由は考えるまでもなかった。 この……距離。 リンは、シキまでの距離をさっと目で測った。シキまでが遠い。これでは、どう仕掛けても相手に十分対処する時間を与えてしまう。相手がシキなら尚更だ。 シキが少し頭を揺らした。恐らく笑ったのだろう。 「いや、おまえは対峙した相手の強さを測れるのだったな。自分で置いた間合いの意味を考えろ。おとなしく去るなら、おまえの評価を変えてやるぞ」 「!」 いつもと違う。 シキも自覚しているということは、リンの気のせいではなかったということだ。ただでさえ、力の差があるのだ。どんな変化があったのかだけでも、確認した方が良い。 でも―――― 「関係ねえ!」 「フッ。所詮その程度か」 あからさまに息を吐かれたのを機に、リンは勢いよく地面を蹴った。 「気が狂れてはいないようだな」 シキはリンの様子を確認しようとしただけだったのか、満足げに笑うとすっと身を引いた。 「あれくらいで、俺の気が狂うとでも思ったのかよ。馬鹿にしやがって」 「狂いたいなら、また狂わせてやろうか? 最後は良い顔でよがっていたぞ」 「――――っ」 嘘だと言い切れないのが悔しかった。リンは、途中からほとんど記憶がない。覚えているのは、骨が軋み身体がバラバラになるのでないかと思った痛みと、頭までどろどろに熔かした熱だけだ。 「嘘だと思っているのなら、思い出させてやろうか?」 「このっ」 冷静にならねばと頭では分かっている。こういう不利な状況の時こそ、ましてや相手の実力が自分よりも上だと分かっているのだから尚更、針の穴を通すような慎重さと正確さが必要だ。 だが、リンには噴き出した怒りを制御できなかった。 壁を蹴って、シキに躍り掛かる。とっさにベッドに置いてあった枕を彼の顔に投げ付けて視界を奪うと、彼の胴体を蹴り上げた。 「くっ」 当たったと思ったのに、シキはリンの足をスレスレのところで回避し、逆に宙に浮いたリンの背を蹴ろうとしている。気配で察して、リンは素早く身体を捻って回転に勢いを付けると、ベッドの上方へとシキを向いて着地した。 「悪くない。勝ちも負けもしなかった、ということか」 「何の話だよ」 「賭けの話だ」。 「何?」 リンが武器を下ろさないのに、シキが日本刀を持った手を下ろした。そして、何を考えているとも分かりにくい表情のまま、じっとリンを見据えている。 馬鹿にしている。 リンはシキとの間をいつでも詰められる。それなのに、武器を下ろすとは、シキはリンのことを完全に見くびっている。シキの唇の端がきゅっとしなった。 「よくよくおまえは不憫なヤツだな」 「何だって?」 「何故、雨の中こんなところを歩いていた」 「何故って……」 身体の変調をアキラに知られたくなかったからだ。あのままアキラのそばにいたら、何か取り返しの付かないことをしてしまいそうだったからだ。 言い淀むリンに、シキの笑みが深くなる。 「俺を捜していたのだろう」 「――――は?」 何をどう考えれば、そんなことを思えるのか。リンは自分の耳を疑った。 いや、リンはいつでもシキのことを捜している。シキもそう考えて、よく顔を出せたと嘲笑ったのでないか。今更、自分を捜していたも何もないはずだ。 「おまえこそ、こんな雨の中歩いていても獲物なんか見付からねえだろ。物好きめ」 「……」 シキは少しばかり瞳を大きくすると、今度ははっきりと見て取れるほどに笑った。 「おまえ、自覚がないのか」 「何を」 「禁断症状」 「! お、まえ――――、やっぱり俺にラインを」 今にも躍り掛かりそうなリンを見ても、シキは笑ったままだ。刀も相変わらず下がったままで、かえって切り込むタイミングを見失った。 |