「月が綺麗だ」
 来栖翔は、夜空を飾る満月を見上げて目を細めた。この満月が今宵呼んだのかもしれない。そんなことを考えてしまうくらい、今日の月は美しい。
 翔は木々により浄化された空気を胸いっぱいに吸い込みながらのんびり夜の散歩を楽しんでいると、ふと数少ない人の気配を感じて、そちらを見やった。
 見れば、誰かがベンチに腰かけている。たまにベンチで一夜を明かそうとしている者を見かけることがあるが、彼はそうではないらしい。ノートを広げて何やら熱心に書きこんでいる。
 仕事? こんな時間にこんなところで? つーか、サラリーマンって服装じゃねーよな。
 翔は強く興味を惹かれて、彼の方に近づいていった。
 何だ? こいつ。
 しんとしているから、翔の靴音はよく響く。百歩譲って通行人に興味がなかったとしても、その靴音が自分の前で止まったら、おかしいと思うだろう。顔くらいは上げるだろう。だが、彼はよほど集中していて気づいていないのか、それとも他者を全く気にしていないのか、ぴくりとも反応しない。
「こんばんは」
 声をかけると、流石の彼も顔を上げて、何故だかほっとした。しかし、ほっとしたのも束の間、ふんわりとウエーブした前髪の間から現れたのは、予想もしない鋭い瞳で、翔は思わず身を引いてしまった。
 げ……。もしかして怒ってる? つーか、すげーギャップ。
 無言で向かい合っていても仕方がない。緊張より興味が勝って、翔はにこりと笑顔を浮かべた。
「何書いてるんだ?」
 翔がのぞきこむと、彼は相変わらず顔をしかめたままだったが、ノートが閉じられることも、乗り出した身体が押し退けられることもなかった。お陰で、シャーペンの薄い筆跡も問題なく目に入る。
「音符? もしかしてお前、作曲してたのか。それは――――邪魔して悪かったな」
 彼が怒っているのは、作曲に没頭しているところを翔が邪魔してしまったからだったのだ。頭の中で鳴っている音楽を中断させられたのでは、怒って当然だと思う。罪悪感は覚えつつも、興味には勝てない。翔は音楽を聴くのも歌うのも奏でるのも好きだ。止められないのを良いことに、翔は五線譜に目を走らせる。
「すげぇな。メロディだけじゃねーんだ」
 翔は頭の中でドラムパートを鳴らしながら、メロディを口ずさんでみた。すると、彼がはっと目を見開く。
「違う?」
「合ってる。だが、ピッチはそうじゃない。遅い」
「これくらい?」
 スピードを上げると、明らかにメロディが良くなるのが分かった。
「違う」
 彼が足でリズムを取りながら、翔より若干速いスピードで歌い始めた。
 うわ……。良い声。
 彼の声は、柔らかみがあり、それでいて力強かった。曲も僅かなスピードの違いで、驚くほどに曲の表情が変わる。
 良い曲だ。良かった。俺のせいで曲を忘れちまったってことはなさそうだな。
 サビまで歌い切ったところで終わるのかと思ったが、歌声は間奏へと移り、曲が2コーラス目に入る。
 翔は、無意識の内に彼の歌声に自分の声を重ねた。途中からはノートにはないが、彼が歌ったメロディが頭に焼きついている。最後まで歌い終えて、翔は彼に笑いかけた。
「良い曲だな。楽器も入るとどんな曲になるのか、楽しみだ」
 一緒に歌ったことで親近感が湧いた翔と裏腹に、彼の不機嫌な顔は変わらない。
「俺は来栖翔。お前、またここに来る?」
「……」
 ダメか。じゃあ……。
 翔はめげずにノートを指す。
「このパート、ヴァイオリンだろ? 仕上がったら俺が弾いてやるよ。こう見えて、俺――――」
「必要ない」
 つれない言葉に大げさに肩を落としてみせるが、予想通り彼はノー・リアクションだ。
「ま、良いや。名前、教えろよ。名前くらい良いだろ」  気に入らないとありありと語る視線を向けられて、口元に苦笑いがはりついてしまうが、はっきりと手応えを感じる。きっと彼が気に入らないのは翔自身ではなく、恐らく――――。
「教えて……ください」
 鋭い瞳が微かに細められた。口元にもほんのりと笑みが浮かんだ気がする。
「四ノ宮――――砂月だ」
「四ノ宮砂月。良い名前だな」
 まただんまりかよ!
 ここで更に食いつけば、恐らく今と同様のやりとりで彼は付き合ってくれるだろう。そんな予感がしたが、翔は笑顔を浮かべたまま一歩後退する。
「邪魔して悪かったな。またな」
 今更かもしれないが、彼は作曲の途中なのだ。今の曲はとても良かった。是非忘れない内に最後まで書き留めてほしい。
 砂月の視線が追ってくるのを意識しながら、翔はくるんとターンすると肩越しに手を振る。
 残念ながら砂月が手を振り返してくれる気配はなく、自分の靴音に重なるようにノートにペンを走らせる音が聞こえてきた。
 あの曲――――。
 印象的な彼の歌声を頭の中で再生しながら、翔はリズミカルに夜の公園を歩き出した。



 指が髪の湿りを確かめ、次いで頬に触れる。
「頬も冷たい」
「体温が低いのは生まれつきだ」
「それにしても冷たいな。温めてやろうか」
 砂月が中腰になって、翔は、はっと瞳を見開いた。
「そのつもりになったから、のこのここんなところまでやって来たんだろ?」
 砂月の瞳が熱い。先日、彼に抱き寄せられることを予感したのは、翔が彼に想いを寄せていたからだけではなかったのだと悟る。
 砂月も……?
「どうなんだ?」
「俺はただ……急にお前に会いたくなって」
「ただ? この雨の中、居場所も分からないのに、か?」
「……」
「明日なら、いつものあの場所にいたかもしれないのに?」
「知るかよ! 今日会いたかったんだっ」



 熱いキスに身も心も持って行かれそうになるのを、闇雲に暴れて阻止する。
「こっちは嫌だって言っただろ」
「キスもさせない気かよ」
「お前……俺に無理させてるって自覚ねーの? 後ろからのが……楽なんだよ」
 砂月が不服そうな顔をしているが、翔は無視して身体の向きを変える。
「なら、せめてもっと色っぽい言い方にしろよ」
「色っぽい?」
「気の利かねー野郎だな」
 砂月が翔の背中に身体を重ねるようにして耳元に唇を寄せてくる。そして、熱い息を吹きかけながら『後ろからのが感じるから』と艶めいた声で囁き、
「って言えば良いんだよ」
と、真っ赤になって振り向いた翔を笑った。
「おま……俺のことからかって!」
「いーや、俺は本気だぜ」
 砂月が、言えとばかりに唇を歪めて翔を見下ろしている。
「俺も妥協してやってるんだぜ?」
「大いに妥協してんのは俺だろ!」
「そうなのか? なら、今日はここでやめにしようか?」
「う……」
 買い言葉に売り言葉で、思わず肯定してしまいそうな自分をかろうじて押しとどめる。これくらいでやめられるくらいなら、そもそも彼に抱かせるなどしていない。
「う、後ろのが……感じるんだ」
 やっとのことで言葉にしたのに、翔の耳に届いたのは、予想もしない変な音だった。見れば、砂月の顔が歪んでいる。
「お前……もう少し色気ってもんが――――。いや、こういうのも逆に。悪くないぜ」
To be continued