来栖翔の前には、草原が広がっていた。若草がそよ風にゆらゆらと揺れて、広い空は明るい水色で、白い雲がふわりふわりと浮かんでいる。 音が聴こえた。耳慣れた音だ。弦楽器特有の柔らかな立ち上がり。ふわりと優しい音が身体を包み込み、甘く囁き掛けてくる。徐々に力強さを増し、どこまでも行ってしまうのかと思いきや、ふと切なく、一転して踊り出したいくらいリズミカルに小気味よく響く。 繊細、且つ自由奔放。時によって表情がまるで違うが、いつもと同じ旋律だと分かる。 どこ、だろう。 草原をゆっくりと見渡すと、ミルクティー色の柔らかなカーブを描く髪を、ふわふわと揺らしながら、楽しそうにヴィオラを奏でる少年がいた。 彼も翔に気付いたようだ。ふわりと優しく微笑み掛けてくる。 ――――那月。 『翔ちゃんも、一緒にどうぞ』 『一緒にって、おまっ……。こんな毎回違うのに、一緒になんか弾けるかよ』 『大丈夫ですよぉ。お喋りしてるのと同じです。ほら……』 まるで翔が弾き始めるのを誘うように、リズムがゆったりとしたものになる。翔がヴァイオリンを構えて、そっと弓を当てると、那月が満足げに頷いた。 本当だ。那月が言う通り、お喋りをするような、自由なメロディとリズム。追い掛け、重なり、絡み合い、ふと離れ、ソフトにタッチする。 『ね』 那月も翔も楽しそうに笑っているのに、翔は何故だか胸がきゅうっと締め付けられて、泣き出したい気に駆られた。 「!」 ふと、目の下を指先で辿られて、はっと目を開く。 ――――暗い。 今までの優しい光景が嘘のように、部屋は暗かった。夜明け前だからというだけではなく、豪華な造りに一流の調度に囲まれた広いばかりの部屋は、根本的に冷たい。少しも翔の心を包んではくれない。 フッと、他人の息遣いを感じて、翔は横を向いた。 人がいる。先ほど翔の涙を拭った男だ。同じベッドで一組の毛布と掛布団を分け合い、翔を抱いて横たわっている。 那月と同じミルクティー色の髪をした、但し全く印象の違う、がさつでひどく冷たい男だ。 「……」 「ご主人様は、泣くほど良かったのか?」 「言ってろ」 翔が背を向けると、逞しい腕が強引に抱き込んできた。背中にぴったりと彼の身体が重なり、翔は固く瞳を閉じる。 「奉仕してやろうか」 「お前の場合、奉仕じゃなくて搾取だろう。離れろ」 肘で密着した胸を突くが、彼の身体は離れない。 「ククク」 「フン」 さもおかしそうに笑われて、翔は眉間に皺を寄せると無理やり目を閉じた。 ほとんど小走りの翔の後ろを、特にこれといった反応を示すことなく、サツキが付いてくる。 「那月、といったか」 「その名を出すな」 「昔の相方なんだろ?」 翔は、驚いて足を止めた。 サツキは、翔のこと同様、那月の情報もほとんど知らないはずだ。 無論、那月を探すための情報は与えてある。那月が、天才的なヴィオラ奏者で、故に国中の才ある者を掻き集めていた組織に狩られたことは知っている。 俺の……ヴァイオリンを見付けたから、か? 触れることも捨てることもできずにいるヴァイオリンを見付けて、翔が必死になって探している那月と結び付けたということだろうか。 「弾けないくせに、今更探し出してどうするんだ」 「黙れ」 「それとも――――恋人、だったのか?」 「っ!」 「サツキ、行くぞ!」 ガタッと立ち上がった翔を、サツキが冷めた目で見詰めている。 「どこへ」 「那月がいたっていう支部だよ」 「行ってどうする。四年も前にいなくなったんだろ」 「間違いかもしんねぇ」 「はぁ?」 サツキが眉をきゅっと寄せて、あからさまに馬鹿にした声を出した。翔は、カッとなって声を荒げる。 「何か手掛かりが見付けられるかもしんねぇだろっ」 「四年も前にいなくなったんだぜ? んなもんあるかよ」 「何で分かる!」 一分一秒も惜しいと身を翻した手を、サツキに掴まれる。 「分かるだろ、普通」 「放せ!」 「行くだけ無駄だ」 「うるさい。黙れ。付いてこい!」 掴まれた腕を振り払おうとするが、逆にぐいと引かれて翔はサツキを振り向いた。 「――――それは命令なのか?」 冷たいライトグリーンの瞳が、ひたと翔を睨み据えている。普段感情の見え辛いサツキだが、一目で分かるほど不愉快になっている。だが、翔も折角掴んだ手掛かりを諦めるわけにはいかなかった。 「命令だ。付いてこい」 「イエス・サー」 銃をかわせる場所を素早く探し、彼らの死角を意識したルートを目まぐるしく考える。 行けるか? 迷っている時間はなかった。勘に従って、音を立てないよう細心の注意を払い移動する。 「いたぞ!」 見付かった! 移動しているのは翔だけではない。見付からないよう気を遣わなければならない翔と違い、彼らは大胆だ。その分動きも速い。 翔はランダムにステップを踏んで、照準を外しながら、猛然と部屋を走り抜ける。 銃声と破裂音。手近な隙間に飛び込むが、一時の銃は凌げても先がない。 「くっ」 追い付いてきた男の銃を払い落とし、急所に蹴りを見舞った。だが、翔にはサツキのように一撃で動作不能に陥らせるほどの威力はない。銃を拾う間もなく、次に迫った男と対峙している間に、一度は倒した男が起き上がる。 ダメだ! 殺されると思った瞬間、すぐ後ろの窓がけたたましい音を立てて割れた。 「!」 恐れていたことが現実となった。目の前にいる者たちだけで手いっぱいの翔に、更に建物の外からの攻撃をかわせるはずもない。 味方の出現とはいえ、男たちの動きが一瞬止まる。翔はとっさに逃げを打った。 「うあっ!」 だが、後ろから誰かがぶつかって来て、つんのめるように吹き飛ばされてしまう。いや、誰かに背中から捕まえられている。 「ぐあっ!」 目の前の男が、まるで車に撥ねられでもしたかのように、吹き飛ばされた。その間も、翔はすさまじい勢いで移動している。 これって……。 翔は小柄ではある。だが、ほんの子供のような体型をしているわけではない。屈強な男でも、翔を抱えたままこんなスピードで移動することは不可能だろう。 信じられない思いで顔を捻じ曲げると、果たしてそこには期待した顔があった。 「サツキ……」 「待て、まだ濡れて……」 「どうせまた濡れる」 ベッドの上に放り出され、バスタオルで包まれたまま抱き締められる。バスタオルの布地はふんわりとして柔らかいが、いつも以上に身動きが取れない。 「お前、食事は――――」 「お前で十分だ」 「ちょ、待てっ。ここ、そんな壁厚くね」 「じゃあ、お前は、どこでするつもりだったんだ? 外かよ」 「そ……と? んな無茶なっ――――。ん、んんんっ」 激しく唇を貪られ、翔は言葉を紡げなくなった。何回か彼の唇から逃れようともがいたが、やがて強引で巧みなキスに呑み込まれる。 「ん、ふっ」 「今日の報酬を寄越せ」 「ここ……マジでやばい」 翔とサツキは気配に敏感とはいえ、ロビーでの人の出入りが察せられるのだ。廊下や近くの部屋で人が話しているのも、内容こそ聞こえないが分かる。声を上げれば、異常を察知して駆け込んでくる者がいるかもしれない。 「お前が我慢すれば良いだろ」 「……んなっ」 言いながらも、サツキの指が無造作に翔の後ろに触れ、内側に潜り込んでくる。先ほど塗り込められた石鹸のせいで、指はあっさりと奥まで入ってしまう。 「う……くっ」 力任せに拡げられ、押し広げられた隙間から二本目の指が割り込んでくる。 「ぐはっ」 早ぇっ。 サツキは、いつも強引だ。翔の苦痛に歪む顔を見るのも快感だと、明らかに早いペースで翔の身体を拓こうとする。だが、今日はいつもよりも酷い。 石鹸の……せ、い? ならば、皮肉な話だ。潤滑剤を使われ、いつもより楽に事が進んでいるから、更に無理を強いられると誰が思おうか。 「はあっ、んく。も……少し」 「もう良いのか?」 「違……は、うっ」 本当に翔が肯定したと思ったのか、内側で指を開かれる。翔は引き裂かれそうな痛みに、身を折った。 指が力まかせに中を掻き回す。押し拓かれる感覚にも、柔らかな肌に突き刺さる爪にも、敏感な部分を突き上げられる衝撃にも、苦痛しか感じない。苦鳴を懸命に呑み込むが、他に聞こえてしまうのでないかと気が気でない。 指が引き抜かれて、翔は無駄と知りつつ、彼の下から抜け出そうともがいた。 「ちょ……加、減をっ。く……」 「逃がすかよ」 肩と腕とを真上から抑え込まれ、サツキの顔が迫る。唇を薄く開き、翔のそれを奪おうとしている。 「!」 その顔は、見慣れた彼であって見覚えのないものだった。 「サツ……キ?」 飢えてる? 熱っぽい視線が翔へと注がれている。乱れた息遣いに合わせて肩が、胸が上下している。唇が触れる寸前、湿った熱い息が掛かる。 「ん、ふっ」 俺、求められ……てる? |