来栖翔がシャワーを浴びて部屋に戻ってくると、同室の四ノ宮那月がぼんやりとベッドに腰掛けていた。おっとりとはしているが、明るくて元気な彼にしては珍しいことだ。
「那月、どうし――――、砂月?」
 那月でなくとも、深刻な顔でベッドに腰掛けているのはおかしい。いや、砂月だからこそ、更におかしい。砂月は、那月より遙かに精神的に強い。性格も強引で不遜で、翔はこんな表情の彼を見たことがなかった。
「どうかしたのか?」
 声を掛けると、砂月がチラリと翔を見て、再び視線を落とす。翔が砂月のそばまで近付くと、ぼそりと低い声が呟いた。
「俺の存在があいつを危うくしている」
「お前が? ――――そんなこと、あるかよ。お前がいるから、あいつが安心して笑ってられるんじゃねーか」
「分かってるくせに。お前に慰められるとは、俺も焼きが回ったな」
「慰めてるわけじゃねーよ」
「俺はどんなことをしても、あいつを守る。俺は消えた方が良いんだろう。お前もそう思ってるんだろ」
 言葉はしっかりとしているが、いつものような覇気はまるでない。それはそうだろう。消えるということは、死ぬということと同義だ。自身の死を怖く思わない者がいるとは思えない。
 百歩譲って、砂月は翔とは違う存在の仕方をしているから感じ方が違うのだとしても、以前死が身近なところにあった翔は、強烈な不安を覚えた。砂月を抱き締めずにはいられなかった。
「何でだよ。そんなこと思うわけないだろ! 消えるなんて言うなよ!」
「……」
 砂月は、今の状況には不似合いな少し驚いたような顔をして、翔を見つめていた。それ以上何を言ったら良いのか分からず、翔もじっと見詰め返していると、ライトグリーンの瞳が一度目蓋に遮られ、再び翔を映し出す。じっとじっと、ひたすらに翔を見つめてくる。
「砂月……?」
 まるで彼の瞳に吸いこまれてしまうのでないかと思った。息をするのもためらわれる。胸が苦しくなって、やっとのことで肩で息をすると、ようやく砂月の表情が動く。
 ――――え? 笑った?
 口元に笑みを浮かべた砂月の顔が近付いてくる。どう反応したら良いのか思い付けないでいる内に、温かいものが唇に触れて、去った。
 これって。
 感覚を追うように指先で唇に触れると、砂月に無造作に手の甲を掴まれる。
「嫌なのか?」
 嫌?
 今にも停まりそうだった思考が、ゆっくりと動き出し、今度は必要以上の速さで回転を始める。あまりの速さに、考えをまとめられない。
 今、砂月が俺に……キスした?
 思いもしない展開だった。それでいて、今、この時に、怖いくらいに自然で、否定するなど思いもつかなかった。
「どうした。黙ってるとやっちまうぜ?」
「……」
「答えられないのか? 都合良く受け取るぞ」
「俺……、俺は」
 翔は、何度か喘ぐように口を開き掛けては閉じた。まっすぐに見つめてくる砂月の瞳を受け止め切れずに視線を逸らすと、そっと砂月の首に腕を回し、自分の方へとぐいと引き寄せた。



 ドスン!
「あいたたたたた」
 羽根のように軽い身体と華麗な着地を想像したのに、飛びこんだ世界は現実と変わらない重力があった。光の入り口があったのとほぼ同じ高さから、ぽいっと地面に放り出され、翔はしたたかに打ってしまった尻を押さえる。
 ひとしきり痛みが去ってから、自分を吐き出した穴を見付けようとしたが、そこにはもう何もなかった。
「出口は別に探せってことか。えーっと、誰か人は」
 村人の話を聞いて、今後の手掛かりを掴むのがゲームのセオリーだが、ここは森か林の中に見受けられる。小道があるので、人はいると思われるが、果たして誰か通るのだろうか。
 夢ん中だからなぁ。
 どんな世界が想定されているのか、まだ分からない。現実と変わらないのか、獣がいるのか、モンスターが出まくるのか、小人が住んでいるのか、いずれにせよ身の安全を第一に考えるなら、目星が付くまでは身を隠していた方が良いかもしれない。
 幸い、周囲には大きな木も灌木も下草もたくさん生えており、窪みに大きな岩に、身を隠せる場所は豊富だ。ひとまず、灌木の陰に入って、周囲を確認する。
 小道に戻るか、それとも用心して少し離れた位置を移動するか悩んでいると、人の声が聞こえた気がして耳を澄ませた。
 何を話しているのかさっぱり分からないが、のんびりした口調に思える。危険はなさそうだが、灌木の陰に隠れたままじっとしていると、誰かが歩いてくるのが見えた。話し声は絶えず聞こえている、人影は一つしかない。
 何だ? 独り言? それにしてはデカイな。
 不思議に思う内に、彼との距離が更に近くなって、謎が解けた。彼は、何羽かの小鳥をまとわり付かせていて、小鳥たちに向けて何やら楽しそうに話し掛けているのだ。
 え……。
 もっとよく見ようと目をこらして、翔は信じられないとばかりに目を見開いた。
 那月?
 ドキドキしている間に、更に彼が近付いてくる。顔の造形もはっきり見えるようになって、もう見間違えようがない。
 翔は、迷わず立ち上がった。
 チチチチッ。
 小鳥たちが鋭い声を発して飛び立ち、真ん中にいた青年が翔の方を向く。
「翔ちゃん?」
 ほら、やっぱり。
「那月!」
「翔ちゃん!」
 那月が一目散に駆け寄ってくる。
 那月に会えた。しかも、こんなにあっさり。
「会えて嬉しいですぅ。まさかここで翔ちゃんにまた会えるなんて、思ってもいませんでした。翔ちゃん、どうしてここにいるんですか?」



「翔ちゃんが来る前も幸せでしたけど、今は翔ちゃんが来てくれて、ますます幸せです。これ以上、何もいりません」
 ますます帰んなくて良くなったってこと? 俺が来たのは間違いだったのか? いや――――。
 翔が来ても来なくても、那月の世界は、翔が見たものだけで完結していた。翔も、今まで一緒にやってきた仲間たちも、プラスαの存在にはなり得ても、いないからといって欠けているわけではないのだろう。これでは、誰を思い出させても、何人やって来ても、那月を連れ戻す力にはならない。
「砂月は……? 砂月もか? あいつも、そう言ってんのか」
「さっちゃん……」
 幸せそうだった那月の表情が、急に硬く強張った。
「那月?」
 薄いグリーンの瞳が、これ以上ないというくらいに見開かれている。見る間に顔が白くなり、翔は慌てて半身を起こす。
「あいつ、どうしてんだ? まだ見てねーけど、入れ替わったり、すんのか?」
「さっちゃんは……」
 那月が激しく動揺している。それは痛みを覚えるくらいで、砂月の名を出してはいけなかったのだと、聞くにしても日を改めるべきだと、察せられる。いつもの翔なら、上手くこの場を収めることができていただろう。
 それなのに、何故なのか、聞きたい気持ちを抑えられない。どうしても那月の口から、砂月がいるという答えを聞きたかった。聞いて一刻も早く安心したかった。
「いるのか? いるんだよな?」
「いま……す。ちゃんと――――。あ!」
 那月が、突然鋭い声を上げると、飛び起きた。
 しまった! 何やってんだ、俺。
「悪い、那月!」
「違います! 僕、思い出して……」
「思い出す? 何を?」
「皆にクッキーをあげるって、約束してたんです」
 那月が慌てふためいた様子で立ち上がり、翔に答えながらも、もう走り始めている。その姿は、まるで翔から逃げるようだ。
「翔ちゃんは、後でゆっくり帰ってきてくださいっ」
「那月……」
 今の那月を一人にしておくわけにはいかない。原因が翔でも――――、原因が翔だからこそ、すぐにでも追い掛けて、何とかしてやらなければならない。
「……」
 頭では分かっていても、翔は動くことができなかった。



 果たして、ガラスの箱に収まっていたのは砂月だった。大きな緑なす木の下、柔らかな草と白い小花の上に置かれた、まるで棺のようなガラスのケースの中で、砂月が眠っている。
「おい、嘘だろ? 寝てるだけだよなっ」
 翔は、ガラスに取り付いたが、中の砂月はピクリとも動かない。
「砂月? 砂月〜っ!」
 砂月を箱の中から出そうと、急いで箱を開けようとするが、そこにも蓋らしき部分が見当たらない。
「これ、どうやって開けるんだ? 蓋……どっかに留め金でもあんのか? 砂月、起きろよ。目ぇ開けてくれよっ!」
 ガラスを力いっぱい叩くが、砂月は動かないままだ。
 翔は、ガラスに両手を突いて、その場に座り込んだ。
 ひやりと冷たいガラスと裏腹に、思い切り打ちつけた右手がじんじんとしている。甘んじてその痛みを感じていると、手の甲を温かいものに包み込まれた。顔を上げると、すぐ横に那月が来ていて、翔の横に腰を下ろした。
「大丈夫。さっちゃんは生きてますよ」
「!」
 翔が砂月の名を出した時の動揺は何だったのか。那月がほんの少し切なさをまとった穏やかな表情で、砂月を見つめている。
 そうか。
「お前、知ってたんだな」
To be continued