自室のドアを開けると、来栖翔は同室の四ノ宮那月の様子がおかしいことに気付いた。
 いつもの那月は、まるで大型犬のように翔の名を呼んで跳び付いてくるのに、今日はベッドに深く腰掛けて俯いたままだ。
 眠って……るのか?
 どうせベッドの上で眠るなら、横になった方が楽だろうにと思うのだが、那月は子供っぽいところがあるから、そこまで行かない内に眠ってしまったのかもしれない。
 翔はそっとドアを閉めると、音を立てないよう慎重に那月のベッドへと近付いた。
「那月、お前こんな格好で寝ると、後で身体が痛くなるぞ」
 自分で横になってくれればと思ったが、熟睡型の那月はピクリとも反応しない。
「やっぱ起きねぇか。仕方ねぇなぁ」
 ベッドで良かったぜ。机で寝てたらこんなデッカイ図体、運べっこねぇもんな。
 翔は、大人と子供ほどの差がある那月の身体を抱えるようにして両肩を取ると、勢い良く倒れてしまわないように注意しながら、ベッドに寝かせてやろうとした。
「ん?」
 重力に引かれてゆっくりと倒れていくはずの那月の身体が、途中でビクとも動かなくなり、あまつさえ元の位置に戻った。そして、何よりぎょっとしたことに、眠っていると思っていた彼に右手首をぎゅっと掴まれる。
「何すっ」
「フン」
 那月が顔を上げた。ふわりと揺れた、ミルクティー色の柔らかく巻いた前髪の間から、鋭い眼光が翔を射抜く。
「な!」
 とっさに飛びずさったのは、那月にはあり得ないギラギラとした瞳を見たからだ。だが、飛びずさったはずが、がっちりと手首を掴まれていたせいで、反動でかえって那月に近付いてしまう。
「うわあっ!」
 ドン、と彼の胸に突き当たり、翔は慌てて身を起こした。そして、見上げた彼の顔に眼鏡がないことに気付く。
 そんな――――。
 体温が、音を立てて引いていくのを感じた。



「寝てた砂月――――あ、自分で砂月って名乗ったんだ――――を起こしちまったから?」
「それは不機嫌になるかもしれないね」
 プッと吹き出すレンを、翔は頬を膨らませて睨み付ける。
「あいつ、座ったまま寝てたんだぜ? フツー、ベッドで寝ろって言うだろ」
「言うだろうけど、それで砂月氏は不機嫌になったんだ」
「俺だって十分不機嫌だ。那月に戻れって言っても、無理だって言うばっかりだし」
「興味深い話ですね」
 トキヤが腕を組んだまま、片手で自分の顎に触れる。
「翔がそれだけ話せたということは、人並みの知能もあるということですね。何かを破壊する音が聞こえないのも、そのせいかもしれません」
「いつもの彼なら、逃げ出した来栖を追い掛けてきかねないからな。今回は別人だと考えた方が良いかもしれん」
「話せるのなら、別の解決法もありそうな気がしますが……」
 考え込んだトキヤと真斗の思考を、レンが遮った。
「逆に話せるから、本人の意志を無視して眼鏡を掛けさせるのが難しいんじゃないかい? おチビちゃんもそう思ったってことだろ?」
「ああ。眼鏡を外した那月のパワーは人外だけど、普段の那月でも十分馬鹿力だし」
 渋い顔をして頷くと、音也が不思議そうに首を突っ込んでくる。
「あれ? でも、話して分かる相手なら、翔はどうして逃げてきたの?」
「なっ」
 翔は、驚きのあまり口から心臓が飛び出るかと思った。
 まさか、女のように襲われるかと思ったとは、言えない。
「は、話せるからって安全なヤツとは限らないだろっ」
「ん? まあ、そうだけど」



「オイ、チビ。学食は九時までだったか」
「ん? ああ、そうだけど」
 翔は、練習を終えて九時寸前に飛び込んだ。食べている間に、学食が片付けられていくのを見ていたから、間違いない。
「仕方ない」
 砂月が顔をしかめながら、ベッドから降りた。そして、壁の照明のスイッチを押す。
 ぱあっと部屋が明るくなって、翔は思わず目を閉じた。
 その間に、砂月は移動している。
「?」
 彼は、那月ではないはずだが、那月の持っている知識を共有しているようだ。彼が向かったのは普段那月が菓子を保管している場所だ。
「おいちょっと待て、今から菓子食うのか?」
「ないより、マシだろう」
「いや、そりゃ……ないよりマシかもしんねぇけど」
 翔は、急いで自分の非常食のストックを掘り返して、砂月に投げてやった。
「カップラーメンで良ければあるぞ?」
「いらん。そんなものを那月に食べさせられるか」
「へ?」
 投げたカップラーメンがそのまま戻ってきて、翔は両手でキャッチする。
「菓子は良いのに?」
 つーか、那月、カップラーメン食うぞ?
「菓子は那月の好物だ」
 どういう基準だよ。那月が良いって言うもんだったら、何でも良いってことなのか?
 え? てか、那月?
 翔は、那月の菓子を物色している砂月をまじまじと眺める。
「何探してるんだ?」
「うるさい、黙っていろ」
 砂月は、菓子を取り出すと成分表示を確認し、ブツブツ言いながら次の菓子を取り出している。
 もしかして、少しでもマシそうなものを探している、とか。
「カップラーメンがダメなら、何なら食べるんだよ」
「まともな食事ならこの際何でも良い」
 せっせと菓子を確認し続ける砂月に軽く息を吐いて、翔はキッチンの小さな冷蔵庫を覗いた。
「食事――――ねぇ。オムレツくらいなら作ってやろうか? 朝食用だから量にちょい難ありだけど」
「作れるのか?」
「任せとけって。起こしちまったからな。特急で作ってやるぜ」



 目を丸くしていると、砂月が立ち上がって身を乗り出してきた。
 え?
 こうして見ると、座っていると幾らかは軽減されていた体格の差を、はっきりと思い知らされる。上から覗き込まれると、かなりの迫力だ。
「あの……どうした?」
 砂月が翔の顔を覗き込み、ニッと笑って腕を差し出してきた。と思うと、両肩を持って引き寄せられる。はっと気付くと、翔は彼の胸の中に収まっていて、抱擁されているのだと分かった。
「あの、砂月?」
 問い掛けると、砂月の身体が離れた。だが、腕は離れない。再び砂月が近付いてくる。今度は身体ではなく顔が――――。
「え?」
 砂月の顔が肩の上に乗った。同時に、耳元に息遣いを感じる。
 何か聞かれたくない話でも? 砂月がか?
 耳元へ内緒話をしてくる砂月を想像できず固まっていると、今度は息ではなく濡れた温かいものが触れた。
 え?
 そして、更に硬いものに耳たぶを挟み込まれる。
「ん……」
「逃げないのか?」
「え? あっ」
 耳、噛まれた?
 ペロリと耳を舐められて、翔はビクンと肩を震わせた。
 何だ? 今の。舌?
 耳に触れた湿った熱い息、やんわりと食んだ歯、そして濡れた舌。
 かあっと体温が上がり、翔は顔を真っ赤にする。砂月の顔が前ではなく横にあるのは幸運だろう。お陰で赤い顔を見られずに済んでいる。
「俺がお前を食ったら、あいつはどんな顔をするんだろうな」
「え?」
 俺を食うって――――。
 カッと体温が上昇するのが分かった。特に顔が……そして、砂月が見ているはずの耳まで熱くなる。
「あの……。うわあっ」
 突然、砂月が翔の身体を放して、無造作に自分の椅子に座った。翔は中腰のまま固まっている。
「ゆでダコみたいに真っ赤だな」
「それは……お前が、変なこと――――」
 砂月は翔の言葉が聞こえなかったように、フォークを手に平然と食事の続きを始めた。だが、翔はドキドキが収まらない。
 何だ、今の?
 頭が混乱しつつも、ゆっくりと自分の椅子に座る。だが、そこで限界だ。食事の続きをするなど、とうてい無理な作業に思える。
 俺を食う、ったって――――、俺は……その、女じゃねぇし。
 いったいどこからその台詞が出てきたのか。時折砂月の仕草にセクハラだと感じる瞬間があったが、それはからかっているだけだと思っていた。
 いや、今のもからかってるんだろ、明らかに。
 上目遣いで、砂月を見るが、砂月は翔の方をちらりとも見ない。
「どうした、食べないのか?」
「ん? いや、俺――――」
 翔は、慌ててフォークを手にした。
To be continued