コツ、コツ、コツ。硬い足音が暗闇の中響いてくる。リンはナイフの柄を握り締めると物陰に身を寄せて、息を潜めた。
 きっと相手はここに誰かいると知って踏み込んできたわけではない。
 そう思うのは、足音に迷いがないからだ。誰かを探しているのであれば、数ある部屋の一つ一つを調べる……少なくとも窺いながら進むだろう。
 それにしても……。
 訝しさは否めなかった。
 内戦勃発後、完全に封鎖されてしまったトシマは、それまで以上に治安が悪化している。統一したニホンの建て直しが優先されて、厄介な地区だと分かり切っているトシマはひとまず蓋をされてしまったからだ。
誰もいないと思っているとしても、もう少し警戒していても良さそうなものだ。
 強い、のか。
 強い以外のもう一つの可能性―――もし彼がただの馬鹿であるなら、きっととうの昔に命を落としていて、今リンを悩ませたりしていないだろう。
 リンはきゅっと唇を引き結ぶと、より身体を小さくした。
 もうすぐ彼がこの部屋に辿り着く。休むところを探しているのであれば、気付かれさえしなければ、彼は更に奥へと向かっていくだろう。彼が完全に通り過ぎてしまってから、リンは密やかに別の場所に移動すれば良い。
 来た。
 これから現れるのがどんな者なのか、好奇心が疼いた。だが、物陰からこっそり窺うような愚かな真似をするつもりはなかった。
死にたくなければどんなミスも許されない。片足を失うというハンデキャップを負ったリンは、尚更慎重になる必要がある。夜目が利く範囲には個人差がある。リンが大丈夫だと思ったからと言って、本当に平気であるという保証はないのだ。
 コツ、コツ。
 足音が通路を進んできて、今まさにリンの潜む部屋の入り口付近を通り過ぎる。息すら止めてその瞬間を待っていたリンは、はっと目を見開いた。
 止まった!
 心臓が激しく跳ね上がり、胸に強い痛みが走った。身動き一つしなかったのは、リンもまたトシマを生き抜いてきた強者だからだ。気配を消し置き物然としながら、いざという時には動きが取れるように指先にまで神経を行き渡らせる。
 他の部屋に行ってくれ。
 額を冷たい汗が伝う。その気配にすらひやりとしながら、彼がふと覗いただけの部屋に興味を無くして行き過ぎてくれることを、ただひたすら祈る。
 ―――ダメだ。
 リンの気配に気付いたのか、それともこの部屋で一夜を明かすことに決めたのか、彼がやはり迷いのない足取りで室内に入ってきた。
 リンがこの部屋で身体を休めようとし、侵入者に気付いた時点でこの場所に身を潜めようと決めたのだ。同じ目的で入った彼が同じように考えて、リンの居場所を確認することは十分にあり得る。
 リンは、彼の動きに全神経を集中した。自分の足では逃げられないことは承知している。一撃で仕留めるか、少なくとも戦闘不能に陥らせなければ、生き延びる道はない。
 足音と布擦れの音から、彼の体格と動きとを予測する。もうすぐ真横を行き過ぎる。あと三歩、二歩、一歩……。
 今だ!
 リンは一気に伸び上がって、流れるように動く視界の中で、予想通りの位置に彼の喉元を捉えた。肉を切り裂く手応えを予感した瞬間、予期せぬ力で手首を掴まれ、身体が宙に浮く。変な方向に伸びた身体を反射的に縮めて急所を庇ったが、彼の動きの方が速い。
 ヤバイ!
「うぐっ!」
 下腹に重い衝撃が走った。したたかに蹴り上げられ、思考が霧散し身体がコントロールを失う。手首を掴まれ、小柄な身体を吊り下げられた。
 蹴られた時に床や壁に叩き付けられなかったのは、彼の握力のお陰だ。あれだけ強烈に蹴り飛ばしながら、彼はリンを取り落とさなかった。身体へのダメージが軽減された代わりに、その衝撃を一手に引き受けた手首が、熱を孕み感覚を失っている。
「う……」
 顎を取られ顔を上向けられた。
 まだ……負けたわけじゃない。
 今のトシマは、死ぬか生きるかの世界だ。身体の自由が利かず、彼がその気になればいつでも殺されるような状態だが、生きている限りまだ『負け』ではない。
 リンは、はっしと自分を捕らえた男を睨み付け、そこに予想だにしなかった顔を見付けて息を呑んだ。
 暗闇の中はっきりとその造形を見て取れるわけではない。だが、リンがその顔を見間違えることがあるだろうか。
「お、前……」
 禍々しい、恐らくは真紅の双眸がリンを覗き込んでいる。闇に溶け込む黒い衣装よりも更に深い闇色の髪。冷たい彫像を思わせる白い色をした秀麗な面。
「シ……キ」
To be continued